かわいそうをこの世からなくす
ずーーとモヤモヤしていたものが少し晴れた気がする。
それは、もちろん東ティモールの人たちの事である。
東ティモールの人たちは、皆元気で幸せそうで、かわいそうには全く見えなかった。
確かに、学校に行けていないとか、良い食事をしていないとか、そのような問題はある。しかし、彼らからしたらそんなこと普通だし、なーんてことない。だから僕は、一切彼らを、そして彼らの生活を可哀そうだなんて思わない。
しかし、それでも僕は彼らと働きたいというか、あの環境で働きたいと思っている。しかも、日本の水準でお給料はもらいたい。
それは何なんだろうか、エゴ以上のものにすら感じる。
彼らの役に立ちたいと思いながらも、それが本意なのか、かわいそうでないなら、何もしないほうがいいのではないか?とずっと考えていた。
そして昨日、ふと思いついた。
僕は、彼らがかわいそうなのが嫌なのではなく、僕が大好きな東ティモールの人たちがかわいそうな人たちだと思われていることが嫌なんだと。
これが、僕が頑張らなければいけない理由なのかもしれない。
ティモールの人たちをもっとかっこよく、先進国の人たちが憧れるような、そんな風にしていきたい。
途上国は、先進国のやり方をまねして行うから、いつまでたっても、先進国の下のような構図になっている。
途上国からでも、変えていけることはある。
西さんとの会話から
久しぶりの更新である。毎日やらなければと思っていたが、やはりやらないな。
さすがに毎日投稿は、しんどすぎるので、毎日アプリを開けばオッケーにしよう思う。
それでもあきらめないハーバードが私に教えてくれたことを再読した。前に読んだのは、3年も前だ。大学の図書館でたまたま見つけて、読んでみたらめちゃくちゃおもしろかった。やさぐれてしまった今でも心に響くだろうかと、恐る恐る再読を始めた。
恥ずかしくなって途中で読むのを辞めてしまうのではないかと思った。しかし、最後まで読むことができた。
色あせることなく、頭に入って来て嬉しかった。それだけ良いことが書かれていた。前と同じ感動を味わえたと思う。前と違うと思った点は、以前よりも共感する点が多かったことと、食いつく場所が前回と違った点だ。
本を再び読むことで、自分の成長も感じることができる。良いことだ。
自分が良いなと思ったことを書く。
一番大切だなと思ったのは、「孤独な時間」と「社交の時間」の話である。
孤独な時間とは自分と向き合う時間。社交の時間とは人と話して、アウトプットしたり、新しい情報を得る時間だ。
この時間の使い分けをしっかりしたい。そのためには、社交で得たことを忘れないこと。
だから、これから人と話したりしたときはその内容を忘れないように残しておかなければ。
今日は、吉田ゼミの西さんと話した。面白かった話は、食卓についてである。食卓は生活を作り、生活を豊かにするという話が面白かった。
食卓にはたくさんのドラマや感動があり、日本の製品を通して、世界の食卓をよくしたいという考えは非常に新鮮であった。栄養価が高く、美味しいものを提供することで、社会をよくしたい。そういう切り口もあるんやな。
自分の事でも気づくことがあった。自分が休学を決めた理由は、当事者意識を持って働きたいと思っていたからではないか?今は、その経験を活かして、企業を探しているのか?
社会貢献をしたいのではないか?
もう一度よく考えるべきだ。
もう一つ大切なこと。「ギブ・ギブ・ギブ&テイク」与え続けること。さすればいつか与えられる。
うーん
頑張り方がよおわからん
前とは違う感じや
前は頑張れない自分が腹立たしくて苛立ってた
今は、頑張らんくても、まぁ良いんじゃねって思ってる
成長してんのか、してないのか、うーんやわ
2018年3月5日時点のビジョン
私は、後発開発途上国でリーダーとして、人々に寄り添える人間を目指しています。そのために、まず社会人経験を積み、経営者的観点から社会の流れを俯瞰し、自己の成長を遂げます。3年目で新規のプロジェクトのリーダーを担い、5年目でそのプロジェクトで成果を出したいです。その後は、アフリカやオセアニア地域にある後発開発国でコーヒー豆の輸出会社を立ち上げます。新しい市場の開拓、品質と生産量を向上させ、コーヒーだけで生活を営むことのできるコーヒー生産者を一人でも多く生み出します。また、コーヒー豆のもみ殻を使った有機肥料の生産や観光客も収穫体験ができるようなコーヒーのデモプロットを作り、新たなコーヒーの可能性に挑戦したいと思っています。
1年後、5年後、10年後これを見てどう思うだろうか。
言うは易く行うは難し。
行わなければ意味がない。
途上国のコーヒーに関わること、、これだけは絶対成し遂げて欲しい。
その後の変化は自由にすればいい。
マウベシのコーヒーを忘れてはいけない。
おばあちゃんが死んだ
おばあちゃんが死んだ。
昨日の午前11時に逝ったそうだ。
もっと、おばあちゃんと話せてたらなぁとか、後悔する気持ちもあるけど、感謝の気持ちがずっと大きい。
昨日の晩は、泣いてしまった。正直、そんなに悲しい気持ちになるとは思ってなかった。
小さい頃は関東にいたから、盆と正月だけしか顔を見せれなくて、おばあちゃん子とは言えないけれど、おばあちゃんは平等に俺に優しくしてくれた。
じいちゃんが何年か前に死んで、本当に辛かっただろうし、寂しかっただろうに、そんなところを一切見せずに、いつも家族のことを一番に気にしていたおばあちゃん。
ご苦労様と言いたい。本当に良く頑張ったね。
唯一の救いは、先週2月23日におばあちゃんに会うことができたことだ。
ちゃんと、話も通じるし、ベッドから起き上がりもしていたから、てっきりまだ元気なんだと思っていたよ。無理して元気出してくれたんだね、ありがとう。
最後に「また来るね」って手を握ることができて本当に良かった。
俺は、おばあちゃんの孫の中では、あまり近い存在ではなかったかもしれないけれど、末孫として最後まで、俺のことを気にかけてくれてありがとう。
いつも、俺の食事の事気にかけてくれたよね。俺が海外から帰って来ると、美味しいもん食べてなかったやろう?って、いつも美味しいもの食べさせてくれたよね。
最後に行った時も、お肉食べやって、御馳走してくれて本当にありがとう。
おばあちゃんとの一番の思い出は、「オムライス」。
幼稚園か小学校低学年のころ、おばあちゃん家に泊まった時に、「お昼ご飯何が食べたい?」って聞いてくれて、俺「オムライスが食べたい」って言ったよね。
多分、おばあちゃんオムライスなんか作ったことないのに、頑張って作ってくれたよね。
でも、中のご飯がチキンライスじゃなくて、普通の白ご飯で、「これオムライスじゃない!」って怒ったことを覚えている。
それでも「そうか~、ほなまた作ったるなぁ」て笑ってた。
あのオムライス、もう一度食べたい。
おばあちゃんは、いつも会ったり、電話したりした時、「あんたは偉い!ほんまによお頑張っているなあ」ていっつも言ってくれたよね。
でもごめん、おばあちゃん。おれまだそんなに頑張れてないわ。
これから、もっと頑張るから。
最後に会った時に約束したこと、ちゃんと守るから。
お母さんを大切にすること。
お嫁さんをおばあちゃんに見てもらうこと。
お店のおばあちゃんの孫でほんまに良かった。
本を読むこと、残すこと
最近は、本ばかりを読んでいる。
「お金2.0」「君たちはどう生きるか」など、今流行りの本を中心に読んでいる。
本を読むと賢くなった気分がするから好きだ。
無理せずというか、疲れず知識を得られるし、読んで自分の考えをまとめたりできるから楽しい。
前は、漫画なんか読むかと思っていたけど、漫画でも学べることや考えさせられることはたくさんある。
こないだスラムダンクを読んだのだが、その一場面が心に残っている。
流川が安西先生の家にいってアメリカへ行きたいと告げる。私は、「行ってこい」と言うだろうと思っていた(普通の熱い感じの作品ならそう言うだろう)。しかし、安西先生は「止めなさい」と答えた。「まず日本で一番になってから、海外に出なさい。」
このやり取りは、なかなか今の自分の置かれている状況に似ていて、考えさせられた。
私は、海外に行きたくて仕方がなく、自分が輝けるフィールドは途上国だとさえ思っている。そのためにこれまで、海外で経験を積んできた。だから、卒業後もできるだけ早く途上国に行きたい。
が、安西先生の言うように、日本で結果を出してからでも遅くないのではないかと少し思った。
話は、戻るが最近本を読んで、たくさんの考えや情報に触れることができている。
たくさん本を読みたいという欲も強くなっている。
しかし、速く読むことに集中し過ぎて、内容が頭にちゃんと蓄積されていないような気もする。
そこで「知の整理術」という本が教えてくれた読書の仕方を実践して、本を残していこうと思う。
まず、気になった箇所には、付箋を貼ること。そして読み終わったら、その本の要約というか感想を付箋に書いて貼っておくこと。そして、「読書リーダー」で本のレビューを書くことである。
こういう感じでやって、本を頭の中に蓄積させていきたいと思う。
就活はただのマスゲーム
就活はくそだ。くそげーだ。
毎日そう思っている。本当にあんなシステムはおかしいと。
しかし、何がおかしく、どうあるべきなのかというのが、上手く説明できない気がする。
だから、書いていこうと思う。
〈就活がなぜくそか〉
それまで、遊んでいたやつらが、社会人を語りだす。
会社人が、社会のことを語ってる。
一括採用というチキンレース。
多様な生き方を推奨しようとしない、システム。
就活で経済効果を生もうとしている感。
大学、人材企業、他の就活生からの煽り。
どこでも教わったことがない、マナーを期待されること。
就活というシステムに疑問を持たないこと。
疑問を持ちつつも、流されてしまう風潮。
だっさい服装。
会社に入るための大学生活だったのか。
中学高校の時そうだった。担任の先生が言うことを何も疑おうとしなかった。
当たり前のように高校に行き、当たり前のように大学へ進んだ。
だって先生も親も友達もそう言っていたから。
高校受験で疑わないのはまだ分かる。だが、大学受験でも一切そこに疑いの余地がなかった。
まあ、受験に関わらず、教師の言うことすべて鵜呑みにしていたと思うが。
中学・高校の時は、周りも同じように進んでいたし、学外にも友達がいなかったから(いても予備校内)、多様な生き方、それ以外を知らなかった。
しかし、大学生になって、これまでたくさんの国に行き、たくさんの友達を得た。上流階級の暮らしから、下流まで幅広く見てきた。
色んな生き方、いろんな価値観に出会って来た。
だから今は、思う。就活はおかしいと。
日本国内でも、色々な学生生活を送って来た人たちを、同じ方向に向かせるシステムがよくわからない。
それに気づいたからこそ、社会の波に抗っていきたい。
今はただの、わがままに過ぎないけれど、自分なりの就活をして、同じ悩みを抱える人たちに伝えていこう。